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2017.10.8 (日)  カトリック浦和教会 80周年記念ミサ


2017年10月8日(日)カトリック浦和教会 80周年記念ミサ

第一朗読 イザヤ5.1-7
第二朗読 フィリピ4.6-9
福音朗読 マタイ21.33-43

今日、わたくしどもは、浦和教会創設80周年のお祝いをいたします。-
80年の歩み、それは日本という国が歩んできた80年の歩みと重なり、さまざまな出来事があった80年でございます。困難なこともありました。現在の浦和教会はさいたま教区の中心であるカテドラルの教会でありますが、さいたま教区はさまざまな課題を持ちながら、元気な、若い、可能性に富んだ教区として、明日への発展が期待されております。
今日は、さいたま教区の新しい出発の日として共に大いに喜び、祝いたいと思います。

今日の福音でありますが、このところ、主日3回続けて、先週も先々週も、ぶどう園のたとえ話が告げられています。先々週はぶどう園で働く労働者の話。夜の明ける時から雇われて働いた人もいれば、9時でしたか、12時でしたか、3時でしたか、夕方5時に雇われた人もいた。夕方5時から働いていた人は、もう涼しくなって、働きやすい状況の中で、1時間しか働かなかったが、1デナリオンをもらった。朝早くから暑い中を汗水たらして働いた人も1デナリオンを受け取った。そういう話でありました。

先週は、二人の息子の話。ぶどう園で働きなさいと言ったお父さんに対する二人の息子の態度が対照的であった。そして、徴税人、娼婦の方が、あなたがたよりも先に神の国に入るというお話しであります。このぶどう園というのは、あまり間近に見ることがないですけれども、人々の生活の中で、非常に身近な存在であったと思います。

今日の話もぶどう園の話ですが、いったい、今日の話は私たちに何を告げているのでしょうか?ぶどう園というのは神様がつくられたイスラエルの人々。ぶどう園の主人というのはイスラエルの万軍の主である神様である、と説明されています。
第一朗読がすでにイスラエルとイスラエルの神様の関係を述べている。神様はイスラエルの人々の救い、幸福を願い、できることは何でもしました。たびたび預言者を遣わし、教え諭し、懲らしめ、言うことをよく聞くように、さまざまな言葉をもって、預言者の働きを通して教え導いたが、彼らは一向に耳を傾けなかった。それどころか虐待し、そして殺してしまう。そういうことさえした。そこで最後に、自分の息子ならば彼らは言うことを聞くだろうし、敬ってくれるだろうと思って息子を送ったが、結果は更にひどいものであった。そういう話の展開であります。

明らかに、息子というのはイエス・キリストをさしている。イエス・キリストは自分でこの息子という話をしたのでしょうかね。「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」どうするだろうかと訊いたのは、イエス・キリストご自身であります。訊かれた方は誰であったかというと、先週の福音の物語に引き続き、祭司長、民の長老という人たち、イスラエルの民の指導者であります。この農夫というのが、イスラエルの祭司長とか長老を指していることは明白であって、その当の祭司長、長老に向かって、イエスが訊いた。さあ、主人はこの農夫たちをどうするだろう。この農夫というのは、当の祭司長、長老のことなんで、その本人に向かって、どうするだろうって訊いているのだけど、訊かれた方は、最初は自分のことだと思わなかったのかな、後でわかったのかな、その辺が不思議なのですが、よくも当の本人に向かって、そういう痛烈なことを言うものですね。いくら何でも、自分たちのことを言われていると悟ったら、それはカンカンに起こるでしょうね。
そして預言の通り、イエスは結局、抹殺されることになる。そういう話の展開であります。

さて、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」というのが今日の福音の結びであります。最初はイスラエルに告げられた福音、モーセを通して授けられた十戒、数々の預言者。そしてイスラエルの歴史を見れば、バビロン捕囚という重大な事件があった。そして時代がくだって、ナザレのイエスの登場となる。このイエスを彼らは受け入れなかった。どうして受け入れなかったのだろうか。
その次第を、聖書は、特に福音書は詳細に語っております。イエスの説く神の国の福音、天の御父の心というものを彼らは理解しなかったのであります。受け入れなかったのであります。教皇フランシスコは いつくしみの特別聖年を定め、一昨年〜昨年です(2015年12月8日から2016年11月20日)、一年余りにわたって、神のいつくしみというものを深く学ぶようにとわたくしどもにすすめられました。神はいつくしみ深い方である。この神様の心を当時の指導者、祭司長、長老、さらに律法学者、ファリサイ派の人々は理解しなかった。罪びとの仲間となったイエスの言動は彼らにとって、大きな躓きでありました。ともかく、その結果、イエスの福音は、ユダヤ人、イスラエル人から、外の世界、異邦人へと伝えられ、ギリシャの世界、そしてラテン人の世界、そしてずっと時代がくだって、世界中に広がり、私たちの国、日本にも伝えられたのであります。

さて 今日、浦和教会創設80周年を迎えるにあたって、私たちにとって神の国を告げ知らせるにふさわしい実りというのは何であろうか。
浦和教会。さいたま教区の現状を見ながら、そこに神の国が来ている、神のいつくしみがあらわれる、実行されていると思っていただけるような実りというものは何であろうかと考えるのであります。
折しもノーベル賞の発表の季節で、ノーベル文学賞は日本人で、イギリスに移住した方が受けられましたが、ノーベル平和賞も核廃絶キャンペーン運動をしている民間団体が受けられた、大変喜ばしいことでございます。さいたま教区は、社会の問題に非常に敏感に誠実に取り組んできました。やはり、さいたま教区においてまず大切なことは、非常に多国籍化している、国際化しているこの北関東において、神の民の一致、お互いに赦し合い、助け合い、そして支え合う姿を表していくことだろうと思います。さいたま教区の非常に大切な課題がそこにあると思います。そして、弱い人間が、そのような重大が課題に取り組むためには神の恵みが必要であります。

今日の第二朗読は、しみじみとわたしたちの心に訴える内容であると思います。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」
「思い煩うのをやめなさい。」他の箇所でも何度も出てくる言葉ですね。
わたくしたちは、と言うか、わたくしはと言いましょうか、思い煩う毎日であります。思い煩ってはいけないと言われてるのに思い煩ってしまいます。そういうような現実がありますが。思い煩いがでてくることは避けられないが、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と。
これは祈りということすね。神様にすべてを申し上げ、神様のはからいに信頼しなさい。そして、お互いに助け合い、信頼しなさい。いろいろな問題があるんですよね。どうしてこうなってんのかな、ということがあるんですよね。それは皆さんもきっとそうだろうと。
神様は私たちの問題をご存知である。ご存知だから、何とかしてくれるはずだと思うのはこっちの勝手な考えでありますけれども、何とかしてくださるんです。ただ、いつどのようにして、この問題を解決に導いてくださるかは、神様の計画の中に置かれている。わたし、この岡田の計画通りにしてくれるとは限らない。こうなったらいいのにと思うが、そうならないですね。ならないけれども、最終的に、すべてを神の国の完成のために役立ててくださる。神の計らいを信じ、そして平和の神がいつも共にいてくださることを更に深く信じて、歩んでいきたいと思います。
浦和教会はさいたま教区の中心ですから、平和、社会の平和、心の平和を表すしるしとして、共に手を携えて、しっかり歩んでまいりたいと思うのであります。

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