谷司教は、説教の中でシャール・アンドレ神父のいくつかの思い出にふれた。
『・・・・シャール神父さんは、最初の派遣で中国へ宣教に出発したのですが、共産党政権のため入国できず日本へ着きました。 日本到着すぐにフランスから持ってきたバイクに乗って、右側通行で交通事故。生死をさまよったので、フランスでは葬儀ミサがあげられたという話もあります。
スピード違反で免許停止になったことは、何回も。 警察署の前では、顔を伏せて走行していたと言っておられました。
さいたま教区では、60年間働いて下さいました。 古き良き時代の宣教師であり、必ず、12月頃になると司教館を訪問し「どこに異動してもかまいません」と話にこらました。
たくさんの人々と出会い、愛し、キリストの生き方そのものでした。 いつも自分から歩み寄っていかれ、その姿を見せてくださいました。
教区が、時代の変化の中で多くの幼稚園を維持しての宣教活動が困難になったとき、閉園することを選ばなければなリませんでした。シャールアンドレ神父さんは、いくつかの幼稚園を閉園することに協力してくださいました。 これはシャール神父の人柄があったこそ、何事もなくすすめる事ができました。
フィリピ人への手紙の中にパウロが、《なすべきことはただ一つ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ることです。》とありますが、シャール神父さまも宣教師としてなすべきことをして、賞をいただいて天国へ凱旋したのではないでしょうか。 ・・・・・』(割愛した部分があります。)
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