みことばと私 REFLECTIONS
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)
このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。
みことばと私
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> 2008年10月(1)
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私は羊を知っている
2008/10/15(Wed)
詩篇 23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
(日本聖書協会 新共同訳) |
九月の“聖書と典礼”の拝領唱の「私はよい牧者 私は羊をしっており」(ヨハネ10・14)というみことばを読みました時、まず、神様は私を知っていて下さる、それも私のすべてを、私自身にもわからない所まで完全に知っていて下さる、という思いと安心感が湧いてきました。 そして、二十年程前の小さな体験を思い出しました。 ある心配事があり、聖堂へ入り、ご聖体に一番近い席で「神様困った事が起こりました・・・どうしたらよいのでしょう」と訴えておりました。 その時“主は私の牧者 私は乏しいことがない”というミサの中でよく歌っている言葉がうかんできました。 「ああ そうなのだ。 大丈夫、心配しなくてよいのだ」という確信がきまして、心が軽くなり、深い感謝もせず、聖堂をあとにしました。 今考えますと、ご聖体の主は何という感謝の少ない者よ、と思われた事でしょう。 その心配事は困った事にはなりませんでした。 その後、時々この詩篇23を読むようになりました。 “主は私の魂を生きかえらせ・・・共にいて、むちと杖で守る・・・”とあります。 そして、主が私を知っていて下さるからには、これからの道もきっと、すべて善い方へ導いて下さるという思いが強くあります。 日常の小さな事では、気になっていた方に街中で会いますと、道を歩く一歩さえも、主の御手の中にあるのではと思います。 そして、今の私を知っていて下さるどころか、天地の創られる前から神の子たる身分を授けるようあらかじめ定めてくださった(エフェソ 1:4〜5)神の栄光をほめ讃える為とあります。 なんというご計画でしょうか。 又、信じてはいた事ですが、最近神が人間の姿をとられた、なんという事! こんな事あるの!と感嘆しておりましたら、先日、主日の福音のパウロの手紙の中に、神の身分でありながら、人間の姿で現れ(フィリピ2・6〜7)とあり、神ご自身が人間の罪を償って、永遠の命を与えて下さるという真理が、他の宗教にあるのだろうか。 とカトリックに呼ばれた事にあらためて感謝しました。 又、この一年程、朝目覚めて心配事が心にうかぶ時、小鳥の美しく歌う声を通して、主の“安心しなさい あなたを祝福します”というメッセージをいつも感じています。 聖書の真理のみことばは偉大ですが、その他の事、自然を通しても、神は私達の心をご自分に向けるよう励まし、祝福していて下さると感じます。 主が私達を完全に知っていて下さるのですから、安心です。 私達ももっとよく主を知り、人々にキリストを伝える事ができるよう、自分を強め力を与えて下さいと祈ります。 |
カトリック水戸教会 樋口 京子 茨城県東ブロック |
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