カトリックさいたま教区
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みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2007年09月(5) - 逆順表示

年間第22主日 ルカ14:1、7−14

2007/09/02(Sun)
14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。

14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 
(日本聖書協会 新共同訳)
  今の日本ではイエス様がご覧になった「招待を受けた客が上席を選ぶ様子」にあからさまに出会うことは少ないでしょう。  逆に「もっと上席に進んで下さい。」と暗に期待して末席にいることが多いかもしれません。

  確かに社会の中で自分の身分、立場をわきまえて行動するのは結構難しいと思います。  贈り物一つを考えても、相手と自分の関係や送る趣旨を考えて、その金額、品物選びなど色々気を使います。 

  インドで召使があまりに忙しそうなので、その家の奥様が手伝おうとしたら「仕事をとらないで下さい。」と言われたと聞きました。

  「お返しを出来ない人」にも対しようによってはその方のプライドを傷つけることもあります。  長い間にその地域々々でお互いを傷つけないお付き合いのルールみたいなものが出来ているものですが、それでも私たちは心の底をみておられる方の前で、本当に相手を大切にしているのか、恥をかくのを恐れているだけではないのかを反省する必要があると思います。

  イエス様からの招待ということでミサの席を連想しました。  昔、「折角招待されているのに招待して下さった方の傍に寄らないで、後方にいるのは失礼でしょう」と教わりました。  それで私は空いている限り前の席に座ることにしています。  大好きなイエス様のお傍にいたいから。 最後の晩餐に同席しているつもりで、司祭の動きを追いながらイエス様はどんなお気持ちだっただろうと思います。

  「このパンを食べ、この杯を飲む度に私の記念として行いなさい」の言葉の中に、あの時、現在の私のことも考えて下さっていたのだと嬉しくて、御胸に寄りかかっていたヨハネのように、御足を涙でぬらし髪の毛で拭ったマリアのよこに想いを合わせます。 と言っても始終あの人やこの人、あの事この事と気が散るのですが、その時は小さきテレジアに倣ってその方やそのことの為に主の御助けを願うことにしています。

  何にしても主の食卓では招待主のイエス様が私たち一人ひとりの欠点も長所も、これから出会う苦労もみんなご存知で手伝ってくださるのだから、世間的な気苦労は一切無く、幸せです。
カトリック所沢教会
松井 幸子
埼玉県西ブロック


年間第23主日 ルカ14:25−33

2007/09/09(Sun)
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
(日本聖書協会 新共同訳)
大谷石で作るお洒落なトイレ
  私は宇都宮の松ヶ峰幼稚園の主任をしています。
  3年前より幼稚園の庭に園児のための外トイレを作ろうと計画を立てました。  いろいろ計画を立てましたが、松ヶ峰教会の大谷石に似合うお洒落なトイレ、大谷石で作ろう! 観光客が多いので利用出来るように。

  障碍者用も作ろう! 教会の信徒さんも利用出来るように! 夢は大きく膨らんで、予算も考えず、希望を設計者の方に託しました。

  保護者の方の意見「水道料、経費がかさみ保育料が上がるのでは?」
  信徒さんがたの意見「お金がかかりそうだが、負担金を出すのでは?」
  お金の問題が先に出て、便利になることが先送り?  「あれれ、待って! トイレは子どもの為に作る予定なのにお金じゃないよ・・・」

  「あなたがたのうちで、だれかが塔を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけのお金をもっているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。  そうしないと、土台をすえただけで完成することが出来ず見ているみんなに人があの人は建てかけたが、仕上げが出来なかったと言ってあざ笑うようになろう」

  ルカによる福音14章28節。 やっぱり大谷石のお洒落なトイレは資金がなければ、土台で終わってしまいます。  無理かな?と思っているとき、園長のワレ神父様より「青木先生はお金の事で悩んでいるでしょう、 もし、安い値段のトイレを考えているなら駄目です。  大谷石でお洒落なトイレはお金はかかるが、出来上がれば皆さん綺麗に使います。  安いちゃちなトイレは使う人もあまり考えないで利用するでしょう」  そうか! 10月のバザーでは力を出して売り上げを伸ばし、完成目指して頑張ろう!

  10月21日(日) 松ヶ峰幼稚園70周年記念完成予定です。
  お洒落な大谷石のトイレを見に来て下さい。
カトリック松が峰教会
青木 けい子
栃木県中央ブロック


年間第24主日 ルカ15:1−32

2007/09/16(Sun)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
(日本聖書協会 新共同訳)
放蕩娘が思う放蕩息子のたとえ話
  家を飛び出し遊びまわって散財した後、改心した次男坊の帰還を父親は喜び、兄はその父親の寛大さに不満を持つ・・・

  一般的にはその前の「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえ話と同様に主の寛大さについて知る話だとおもいますが、私には最初 素直にそのようには読むことができませんでした。  自分自身次女であるが故に、わがままなこの弟の行動も理解できると同時に、同じことされたらやはり長男のように憤りを感じるだろうという、あまり人様にはお話できないような、感情的で自己中心的な性格を露呈した感想でした。

  今はこの話に触れるたびに私の父親が何気なく言った事を思い出します。

  あるTV番組で、家族の中でだれが年老いた親の面倒をみるか、という家族会議を取りあげていました。  面倒をみることによって生じる負担について子どもたちが真剣に話し合っていたように記憶しています。

  その時に私の父は年老いた親の世話をするというのはただ面倒なだけではない、もう一度自分の親と時間が許せる限り一緒に生活することができるというのは実はとても幸せなこと。  多くの人がそれを出来る機会を与えられているわけではないので、それをできる限りありがたいと思ったほうが良い、と私に言いました。

  当時、子供だった私にはメディアが報じる同居生活や、介護の大変さという局面的なものしか目に入っていなかったので、父親が言った何気ない一言というのがまさに目からうろこで心に残るものでした。

  ついつい身近に当たり前のように一緒にいると、その存在の大切さがお金や物などの物質的なはっきりと目に見えるものと比較され、また隠れてその大事さが見えづらくなってしまいます。

  「放蕩息子」の長男も帰宅した次男が父親kら受けたもてなしについて憤っていますが、まさにその物質的な側面だけに気をとられているからだと思います。  次男が遊びほうけている間、父親とともに過ごせた貴重な時間というのは今からお金で買えることではありません。  ですから父親は、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。 私のものは全部お前のものだ。」と長男に諭したのだと思います。

  目に見える富よりも絆や愛情など見えないものの大事さ、はっきりと形にみえないからといって忘れてはいけないということを諭してくれる話だと思います。
  教会から長いこと離れている父ですが、もしかしたらこの「放蕩息子」の話が根底となって私に話しをしたのかもしれないと考えると、放蕩娘としては感慨深いものが少々あります。
カトリックつくば教会
斉藤 みずほ
茨城県西ブロック


年間第25主日 ルカ16:1−13

2007/09/23(Sun)
16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。

16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。

16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。

16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。

16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
(日本聖書協会 新共同訳)
3つのキーワード

  @  「告げ口」 別の言葉で言えば密告(チクリ)、告発。  密告は他人を貶め、自分だけ助かろうという自己中心的なイメージがある。
  告発は内部告発という言葉もあるように、(最近、材料や賞味期限などを偽る事件が相次いでいる)いわゆる「看板に偽り」がある場合、社会通念、
社会論理や正義、(コンプライアンス)に反する事柄に対して、正常に戻すためにはいいことだと思う。

  A  「悪い管理人」の例えは、ざっと読むと日本人には −特に私にはー なじまない例えだと思う(聖書にはそのような箇所がいくつかある、注釈なしでは理解できない)。
  脚注を読むと色々なことが思い浮かぶ。  本来の利息に私利私欲の分が上積みされ、膨大な利息を生み出していたのではないか、「悪い管理人」はそれを差し引き本来の形にした「良い管理人」になりサポーターを増やし、そのサポーターの声が天に届き、天を手に入れることが出来た。

  B  ごく小さなことに不忠実なものは、大きなことにも不忠実である。
  これは仕事をしていてよく突き当たる問題である。  私たちの業界は、許容値、不確実性、ゆれ範囲、ヒステリシスの閾(しきい)値を定めている。  決められた位置より少しずれたり、角度が違ってセンサーを取り付けて、まーいいか!とそのままにすると、とんでもないデータを提供することになってしまうからである。

  執着、固執、頑固という態度や心理状態はあまり好きではないが、適度な歯止めをしないと大きな過ちが待ち受けているかもしれない。  ま、いいや!でやり過ごすと許容範囲がどんどん広がり、大きな被害を自分にも他人にも与えてしまう。(天国の鍵を落とす)。

  主のそばにいたいと思うならば、普段の注意を怠ってはならない。
  そうでないと、指をくわえて悔しがることになるのではないかと思う。
カトリック鹿島教会
小島 芳武
茨城県東ブロック


年間第26主日 ルカ16:19−31

2007/09/30(Sun)
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
(日本聖書協会 新共同訳)
人は生きたように死んでいく

  「人は生きたように死んで行く」という言葉をよく聞くが、それを証しするような場面に何度か出会う機会が幸いにもあった。

  そこには亡くなられた方の人生の歩みがあり、とても厳粛な思いを抱いた。  その時、私はどのような最後を迎えるであろうかと考えさせられると同時に残された日々を真実に生きなければと心を新たにする。

  今日の福音を読んだとき、この「人は生きたように死んでいく」という言葉を思い出した。  そこには次のような箇所がある。 「私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしても出来ないし、そこから私たちの方へ越えて来ることもできない。」  この行き来できないほどの深い淵は、金持ちが生前築いたものではないだろうかと思った。  門前に座っていたラザロを見ない、見えない。  自分の生活を守るために頑丈な塀を作り、誰にも邪魔されないように、敵が侵入しないように他者との隔たりを作って、遊び暮らしていた。  関心が自分自身にのみ向けば向くほど他者との隔たりは、深くなっていった。

  また、他の箇所では「こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」「死んだ者の中からだれか兄弟のところに行ってやれば悔い改めるでしょう」と。  しかし、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのならたとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れない」とある。

  日々の生活の中で語りかけられる神のみ声は、み姿は、小さな人々と共にある時に見えて、聞こえてくるのではないだろうか。  自分自身が驕り高ぶる時は、どんな語りかけも聞こえない。  自分の弱さ、貧しさに心を向け、兄弟姉妹と共に歩み、壁を打ち壊したとき、門前に座っているイエスに出会えるのでは。

  今日の福音は、私の生き方を問うものであった。  生活の中でどのように兄弟姉妹と関わっているか、他の人に近づくことは、聖なる地に近づくことであり、私の中にある偏見や恐れ、先入観、立場を打ち砕くようにと招いている。

  イエスが貧しく弱く、苦しむ兄弟姉妹と共に生きられたその生き方を少しでも生きられるようにと祈りつつ、永遠の生命にいたる道を歩みたいと願った。
愛徳カルメル修道会
Sr. 上田 還子
佐野修道院


 [みことばと私] 




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