カトリックさいたま教区
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みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2007年01月(4) - 逆順表示

主の公現 マタイ2:1−12

2007/01/07(Sun)
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
(日本聖書協会 新共同訳)
境界を持たない神

  ご公現とは、人となられたイエス・キリストを通して、神が世界に顕にされたことを意味します。

  イエスが諸国の民に現されたときにはファンファーレなどはありませんでした。  星の形成のことを学んでいた、世界の別の果てからの賢者たちが"救いの星、王の中の王の星″を見たのです。  彼らはベツレヘムへの崇敬はユダヤやイスラエルだけでない、宇宙の王で、救い主としてのイエス・キリストの普遍性の受容のしるしでした。  賢者たちは大きな意味を持つ捧げ物を携えてゆきました。  黄金はイエス神性を現し、乳香は救い主としてのイエスを、没薬はイエスの人生を表します。

  イエス・キリストのご誕生、それがどんなにへりくだったものであったとしても、人々の間にさざめきを生み出しました。  イエスのこの世へのご公現に対していくつかの反応がありました。  まず、他の国から来た賢者たちとその地方の羊飼いたちはイエスを普遍的な救い主として受け入れました。  次には、王ヘロデはイエスの誕生のニュースを耳にして恐れを抱いたのでした。  彼自身より偉大な別の王がいることを受け入れることができませんでした。  ヘロデの権力への渇望は彼を駆り立てて無垢の子供たちを犠牲にして救い主を殺すようにとの命令を出させたのでした。  三つ目は、福音書には述べられていないことですが、自分たち自身のためにイエスを独占したいと望んでいた人々がいた可能性です。

  ご公現について福音書は、彼を礼拝するために来た異国の賢者の存在によって、イエス・キリストを゛境界を持たない神として描いています。  イエスは人種、肌の色や性別などについてのいかなる偏見なしに全ての人々を抱く神なのです。  イエスは、教会の四隅や壁の中に閉じこもってはおられないのです。  生きておられ、働いておられ、移動しておられ、あるいは避難民でありさえする。  イエスはいつも働いておられるからです。  利己的な私たちの心の中にイエスを閉じこめることは御子を世に知らしめ、体験するようにと送ってくださった髪の目的に対する冒涜です。  ですから、私たちは"カトリックと呼ばれます。  それは"普遍的なという意味です。  私たちの教会は、イエス・キリストと同じように普遍的で、非排他的でなければなりません。  私たちはみな、良い業を通じて、全ての人々にイエスを表すようにとの挑戦を受けているのです。

  賢者たちと同じように、信仰による巡礼を行い、分け隔てなく、他の人々とイエス・キリストの愛と平和を分かち合う旅をできるほど賢くなれますように。

  私たちは"境界のない教会となることを夢見ています。  そして、いつの日にか、私たちすべてが目覚め、私たちの夢が充たされるようにと祈ります。

  主のご公現 おめでとうございます!
カトリック大宮教会
ジャック・セラテ神父
埼玉県東ブロック


年間第2主日 ヨハネ2:1−11

2007/01/14(Sun)
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
(日本聖書協会 新共同訳)
  ヨハネ2章カナの婚礼は、私の大好きな箇所です。  何故なら、文のとっぱしから復活を想起させる「三日目に」と始まり、人間的な喜び、男女の婚を祝すために参列されるイエス、そして「マリア」ではなく「母」と四回も書かれているのがうれしい。

  「ぶどう酒がありません」細やかな配慮、必要を敏感に察知する目、その気づきこそ、女性的氏名ではないでしょうか。

  「食べるものがありません。 家庭に愛が、子供に喜びが、世界に平和が、社会に正義が不足しています」と見て取る目。 そして、 確信をもって嘆願する母。  「私の時は未だ来ていない」と断りながらも母の祈りと給仕の素直さに応えずにはいられないイエス。

  「このことをイエスはしるしの初めとされた」  母の願いが、神の栄光をあらわすきっかけになることを知ってからは「取次ぎの祈り」が、私の信仰生活の中心となったのです。

  「それがどこから来たか」と世話役が驚き、不思議がるのもほほえましい。  水を極上の酒に変えることぐらいで驚くには及ばない。
人を神の子に変容させるために来られたイエス。  神の栄光に世界を包むために来られたイエス。  神の生命に人を組み入れるために、神が人になられたことを知ったら、死んでしまうでしょう。  全能の父なる神は、イエスを通して「神と人類の婚」「新しき天地」の再創造に力を注がれる。

  その実現のために、神は彼女のように、神にして人なるイエスへのゆるぎない「信」と貧しさ、不足への気づきを、すべての人に求められておられるのです。
愛徳カルメル会佐野修道院
Sr. 武  美代子


年間第3主日 ルカ1:1−4、4:14−21

2007/01/21(Sun)
1:1 -2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:2 [前節に合節]

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 
(日本聖書協会 新共同訳)
圧迫された人を自由にし

  私が今回の福音の中で、一番心に残ったのは「圧迫されている人を自由にし」「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。

  それは、今の日本社会および政治の行方を見たときに、私には『圧迫されている人をますます増やしている』としか見えないし、考えられないからです。

  “いじま”問題は最たる例だと思います。  いじめで自殺したこどもの親が切実に訴えても、関係者は誰も自分のこととして責任を感じず、むしろ責任回避に終始しているし、評論家のような無責任な発言ばかりが報道されています。

  また、政治の世界では、年金を始めあらゆる社会保障の削減や所得税の増税など、国民生活はますます厳しくなる政策をとっているのに、憲法改正、それに関連する国民投票案の改正や教育基本法改正など、どう考えても世界に進出できる軍隊をつくり、個性より公共性を重視させる教育をし、国民を国家の管理下に置くとしか考えられない方向に進んでいるように思います。

  “いじめ”問題は、まずこどもの立場になって考え、救う努力をしていない。  政治の世界は『国家のための国民』が優先し、 『国民のための国家』という考えではない。

  40日間荒野で私たちの救いのために悪魔の誘惑と戦ったイエスとはまったく逆です。

  この2つだけを考えても、今の日本は「圧迫されている人を自由にする」という発想が希薄な社会になってきているのではないでしょうか。  主イエスから見た日本は「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」とはほど遠くなってきているのではないでしょうか。

  司教や司祭は、福音の説教で抽象的ではなく具体的にイエスが何をのぞんでいるかを話し、信徒は行いをもって「圧迫されている人を自由にする」ために行動し、お互いに祈り、話し合う場を設けていく必要があると切実に思いました。
カトリック大宮教会
福井  敬
埼玉県東ブロック


年間第4主日 ルカ4:21−30

2007/01/28(Sun)
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、

4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、

4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(日本聖書協会 新共同訳)


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