カトリックさいたま教区
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みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2006年04月(5) - 逆順表示

四旬節第5主日 ヨハネ12:20−33

2006/04/02(Sun)
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
(日本聖書協会 新共同訳)
主よ 現代世界において聖書の現場(フィールド)は何処でしょうか?
  ぼくは2月のある日、主日の福音リレーのバトンを渡された。 さあ、このバトンを手に取って次の福音リレー走者に渡すために走り始めた。  すると次の福音の光景が目に入って来た。

  『はっきり言っておく。 ひとつぶの麦は地に落ちて死ななければ、ひとつぶのままである。 しかし、死ねば多くの実をむすぶ。』 イエスは実に曖昧なことがおきらいである。
  『はっきり言っておく。』とあるように。
  で、ぼくはこの言葉からもう10数年前に訪れたカルカッタ(今のコルカタ)の光景を思い出した。
  その時のショックは、今もありありと脳裏に描くことができる。

  初めてのカルカッタで、人と車と牛と力車と紳士と野宿者と悪臭の発するゴミの山に同時に出会って、ぼくはたじろいだ。  圧倒的なリアリティー。  このインドのカルカッタでは聖書の現実そのものが見え、生きているんだと実感したのです。

  そこに渦巻く人間界の坩堝、生命である者の内在からほとばしり出る生きる激しさ、あから様の貧困、資産家の傲慢無礼、長い伝統的カーストによる差別、宗教による格差、宗教内差別、そして、暴力、搾取、盗み、売春、etc.  このカオス状況に出くわして、今までのぼくの観念的聖書価値観はガラガラと音立てて崩れていった。  一体ぼくの信仰は何だったのか?

  そこにあのマザー・テレサが仕事をしているという現実!!

  現代を生きつづけるぼくは《地におちて死ぬ麦》のような仕事をしているかと問い返されている。 イエスが福音を生き、十字架にかけられ3日後に復活する<真のドラマ>を現代世界の困難な現実と対峙し、人間らしい温か味のある仕事として、自分の日々の生活にどう繰り込めるかが一人一人問われているのではないだろうか。

  今、ぼくにとっての現場は<虐待された子どもたち>との付き合いです。 どんなやり取りがあっても信頼の灯を消さないことが原則です。 そして、何よりもどんなお話でもゆっくりと聴きつづけることです。

  信頼の灯を支えるものは何でしょうか?
  それは、言い訳なしの無償のほほえみです。
  今日もイエスはほほえみながら、ぼくの心の扉をたたいています。
  ぼくは、喜んで扉を開けます。
  イエスは食卓をいつも共にしてくれるのです。
カトリック所沢教会
塩田  恵
埼玉県西ブロック


受難の主日 マルコ15:1−39

2006/04/09(Sun)
15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
12 マルコ 15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
15:28 *こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(日本聖書協会 新共同訳)
成し遂げられた

  十字架は、キリストの教会のシンボルになっています。  教会のシンボルと言うことは、キリストの信仰の中心と言うことです。

  十字架に釘付けにされたイエスを思うとき、どうして苦しみが救いの道になるのだろう?と戸惑いを覚えます。

  キリストを信じる人々は、「神が十字架の道を救いの道として選ばれた。  人々の救いのためには十字架以外の道の可能性もあっただろうが、神はキリストにおいて十字架の救いの道を選ばれた。 そこには救いの奥義・神秘が語られている」と確信しているのです。

  奥義は、言葉で語り尽くすことはできません。 人が理解し尽くすこともできない、豊かな意味を秘めています。  信仰者が永遠に捜し求める信仰の神父なのです。

  キリスト教は、ナザレのイエスを神の子メシア(キリスト・救い主)と信じるところに成り立っています。  神はキリスト・イエスを通してご自分の思いを人々に伝えます。 「これはわたしの愛する子。 わたしの心にかなう者」(マタイ3・17)、 「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。 その言うことを聞け」(マタイ17・5)、 「神はその独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネ3・16)、とあるように、イエスの十字架は、独り子の苦しみと命を代価とするほど神が私たちを愛しておられ、その神の愛を阻むものは何もないというメッセージを発しているのです。

  ナザレのイエスは、私たちと同じ人間として神のこの愛に完全に応答されました。  「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ2・8)とパウロは言っています。  十字架の死と言う大変な苦しみが伴うことであっても、イエスは神のみ心に応答するのです。 「父よ、お望みならこの杯をわたしから取りのけてください」(ルカ23・42)と言うゲッセマニの園でのイエスの祈りには、神の意志に応えようとするイエスの悲痛な叫びがあらわれています。

  十字架は、わたしたち人間に対する神の命がけの愛と、その愛に対する人間イエスの命がけの愛の応答との出会いを示しているのです。

  神と人との愛が出会うところを「神の国・天の国」と呼び、ここに救いがあります。 イエスの十字架によって神の国が成し遂げられたのです。

  人の救いとは、神の愛と、その愛を信じ、受け入れ、応答する人間の愛との合体の中にあるのだと十字架は語りかけているのです。
カトリック高崎教会 担当司祭
山辺  剛
群馬県前橋ブロック


復活の主日 ヨハネ20:1−9

2006/04/16(Sun)
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。

20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
(日本聖書協会 新共同訳)
死より強い愛
  数日前、私は多くの問題を抱えて頭が痛く、何もできない状態でした。 その苦しみを神に訴え、助けて頂こうと聖体訪問をし、聖堂で祈っておりました。

  自分の悩みを神に打ち明け、神のご意志を考えてみました。  そのとき、自分の苦労の原因はすべて他人に対する愛より、自分に対する愛が強いからだ、と漫然と分かってきました。  いいえ、十分を愛するというより、自分に執着しているというほうが正しいかと思います。  それまで、私はすべてのことの中心は自分であって、自分はいつも正しいと思っていたからです。

  今日は、イエスが死に打ち勝たれ、復活されたのを記念する日です。
  しかし、復活という意味はどういうことだと思いますか?  もちろん死んだ人がよみがえるという意味があります。しかし、私たち、キリスト者にとって復活とはイエスがご自分の死によって私たちに永遠の命を与えてくださることです。  しかし、 私はそれを言い換えて、イエスの愛が死に打ち勝たれたのが復活だと思います。  つまり、復活とは愛が死よりはるかに強いという意味です。  イエスの愛には限りがなく、イエスが十字架上で亡くなられても、その愛は消えないのです。  死が一度はイエスの肉体を眠りに就かせましたが、愛は死より強く、イエスの愛は肉体を越えるものでしたから、イエスは死に打ち勝ち、復活されたのです。

  ですから、イエスが私たちに与えて下さる愛は単なる愛ではありません。

  ギリシャ語の「愛」という語”Agape”には「もともと愛することができないものを、心から愛する」という意味があります。  イエスが私たちを愛してくださるのは、私たちが善行を行っているからではありません。  むしろ罪人である私たちを愛して下さるのです。  だからこそ、イエスの愛は真の愛であり、私たちの想像を超えた愛なのです。

  今日、私たちは、そのようなイエスの愛、つまり、主の復活を記念しています。  イエスの愛は偉大なのです。  私たちは、何も恐れることは無いのです。  イエスが私たちを愛してくださることを信じれば、何の問題もありません。  主の復活を通して神の愛が完成されました。 私たちが何処にいようと、何をしていようと、いつもイエスは私たちと共におられ、私たちを愛してくださるのです。  ですから、 これからの人生を喜びのうちに送りましょう。
カトリック館林・加須担当司祭
盧 熙
群馬伊勢崎ブロック


復活節第2主日(神のいつくしみの主日)ヨハネ20:19−31

2006/04/23(Sun)
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(日本聖書協会 新共同訳)
あなた方に平和があるように

  今日の福音は、主が復活された後の出来事が述べられています。

  復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の鍵をかけて集まっていました。  キリストに対する期待は崩れ、弟子たちの失望、不安、恐れが伝わってきます。  この重苦しい空気の中にいた弟子たちの真ん中に、突然キリストが現れて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

  今まで3年間、共に過ごしてきたあの聞き覚えのある暖かい懐かしい声でした。  あなたがたに平和があるように  主のこの一言で彼らの不安、恐れの心は平和と喜びに満たされ、どんなに力づけられ、励まされたことか。

  毎年、復活後の典礼の中で聴くこのイエスと弟子たちの出来事、対話は現代に生きる私たちにも、時代の空間を忘れて神と人間の関わりを身近に温かく感じます。

  8日目に、トマが弟子たちと共にいた時、そこへイエスが「あなたがたに平安」と言って真ん中に立たれました。  そして、トマに向かって「私の傷の中に手を入れて確かめてごらん。 信じない者でなく信じる者になりなさい」と言われました。  感覚に触れられるものしか信じられない人間の心を得るために、主は感覚の限界まで近づいて感覚の壁を壊されたのです。  主の言葉を聴いたトマはその瞬間、心の目が開かれ神の世界を観て、主が神だと知ったのです。  そして、「わが神よ、わが主よ」と叫びました。  彼の信仰が叫んだのです。

  臆病だった弟子たちはその後、神の国を宣べ、 キリストの証人となって命を捧げました。 主の言葉には、慈しみ、威厳、力があります。  求める人に必ず与えて下さいます。

  十字架上で死去されたキリストは、今は生ける神として私の近くではなく、私自身の中で生きておられる神なのです。  そして、今日も主は私たち一人一人に、「大丈夫だよ。 私はあなたと共にいる」と、語りかけながら一緒に歩いて下さっています。
愛徳カルメル会 佐野修道院
シスター田中 二三子
栃木第1ブロック


復活節第3主日 ルカ24:35−48

2006/04/30(Sun)
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。

24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、

24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに
(日本聖書協会 新共同訳)
見ないで信じる?

  昨年の暮れから今年の初めにかけて、マンションの構造計算書の偽造事件やライブドアの粉飾決算による株価の操作などの事件が明るみに出ました。  私たちは、お金にまつわることは見なくても信じてしまう、疑わないことがあります。  「なんか儲かりそうだ。」となると噂や実態と違うものをみて判断してしまうことが多いです。  ライブドアの株価などは、その典型ではないでしょうか。  いまやインターネットで株の売買ができる時代です。 パソコンの画面で数字を操作している間に、儲かったり損をしたり。 ライブドアの実態どころか、儲かったあるいは損をしたお金さえ見えていないのです。

  さて、神様はどうでしょう。  弟子たちの前に現れたイエス様を弟子たちは亡霊だと思ったというのが今日の福音です。  そこで、弟子たちに手足を見せ、食べ物を食べて、本物のご自分であることを示されました。  二千年前の弟子たちと違い、現代に生きる私たちは「見なくても信じる」、そしてその「あかしびと」になる恵を頂いたのではないでしょうか。

  多くの日本人は「見なくては信じられない」人々ですが、信仰の恵みを頂いた私たちは「見なくても信じて、」キリストに従う人となりたいものです。

  見なくても信じるためには、「出会い」が必要です。  仲間と共に同じ方を向いて活動したときに、そこにイエス様がいることを感じます。   私はたびたび分かち合いのセミナーに参加しました。  教会でのものも、そうでないものもありましたが、そこでの仲間に自分を分かち合っていくうちに、自分自身の体が暖かくなってきて、「ああ、今神様に包まれているんだなぁ」と実感する体験がありました。

  人とコミュニケーションを取るときに、よくやっているのは情報交換です。  「あれは儲かるよ」などと言われれば、見なくても信じてしまうのでしょう。

  そこに神様がいる、相手の心に触れる、本当のコミュニケーションをいつもしたいものです。
カトリック大宮教会
斉藤 政行
埼玉県大宮ブロック


 [みことばと私] 




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