カトリックさいたま教区
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みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2005年04月(4) - 逆順表示

復活節第2主日 神のいつくしみの主日 ヨハネ20:19−31

2005/04/03(Sun)
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(日本聖書協会 新共同訳)


復活節第3主日 ルカ24:13−35

2005/04/10(Sun)
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
(日本聖書協会 新共同訳)
エマオの弟子

 復活節第三主日の福音 ルカ24章のこの箇所は、私の大好きな箇所です。

なぜならば、このエマオへの道を行く弟子と同じ状態になることが、私自身の生活の中でよく起こるからです。

 生活の中で体験する心配、不安、困難が心を占める時、この弟子と同じように暗い顔をして歩み、信じていたイエスがまるで何の力もなく、もやは主は消えてしまったように感じられるのです。 もう再び主を信じることも希望をかけることも出来ないのではないかとさえ思われ、暗く沈んでしまいます。

 それでも、主よ、主よ、と叫んでみますと、主はちゃんと居られるのです。

 後になって、「ああ、またエマオへの弟子になった」と思います。 これまでに幾度あったことか。 これから幾度ある
ことか。

 これからも主イエスに 「預言者たちのいったことすべてを信じられない者たち」と言われ、主を悲しませるのでしょう。

 聖書のこの箇所を読む時、二人の弟子の心の状態に共感し、後には、少しずつ希望が湧いてくるのです。 大好きで、
不思議な場面です。
カトリック友部教会
村田 鈴子


復活節第4主日 ヨハネ10:1−10

2005/04/17(Sun)
10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門から入る者が羊飼いである。

10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。


Yohane ni yori Fukuin ( Yohane 10.1-10 )

[ Sonotoki, IESU wa iwareta. ] 「 Hakkiri itteoku. Hitsuji no kakoi ni hairu no ni, mon o tōranaide hoka no tokoro o norikoetekuru mono wa, nusubito de ari, gōtō de aru. Mon kara hairu mono ga hitsujikai de aru. Monban wa hitsujikai ni wa mon o hiraki, hitsuji wa sono koe o kikiwakeru. Hitsujikai wa jibun no hitsuji no na o yonde tsuredasu. Jibun no hitsuji o subete tsuredasuto, sentō ni tatteiku. Hitsuji wa sono koe o shitteirunode, tsuiteiku. Shikashi, hoka no mono ni wa kesshite tsuiteikazu, nigesaru. Hoka no monotachi no koe o shiranai kara de aru. 」 IESU wa, kono tatoe o Farisai-ha no hitobito ni hanasaretaga, karera wa sono hanashi ga nan no koto ka wakaranakatta.

IESU wa mata iwareta. 「 Hakkiri itteoku. Watashi wa hitsuji no mon de aru. Watashi yori mae ni kita mono wa mina, nusubito de ari, gōtō de aru. Shilashi, hitsuji wa karera no iu koto o kikanakatta. Watashi wa mon de aru. Watashi o tōtte hairu mono wa sukuwareru. Sonohito wa, mon o deirishite bokusō o mitsukeru. Nusubito ga kurunowa, nusundari, hofuttari, horoboshitarisurutameni hokanaranai. Watashi ga kitanowa, hitsuji ga inochi o ukerutame, shikamo yutakani ukerutame de aru. 」
(日本聖書協会 新共同訳)
敷かれた道

「門から入ってくる人が羊飼いである」この言葉は私を放さない。私がキリスト教に関心を持ったのは1952(昭和27)年の学生時代であった。倫理学の神沢教授の影響でキリスト教研究会に入った。徳富蘇峰の孫が同じ研究会におり荻窪に豪壮な家があった。この家で研究会が時々行われた。敗戦後6年経ってもまだ食料は少なく無料のステーキに驚異の舌鼓を打った。流石は父が大鉱山の社長だと思った。

私の家内は幼児洗礼のカトリックだった。私の両親は仏教徒だが非常に理解があり私も素直な気持ちで教会で式を挙げた。あのステーキから丁度10年目だった。家内はカトリックの話は一切しなかった。教会に誘いもしなかった。ただ日曜日や会合には休まず出席していた。いつの間にか私は教会に顔を出すようになった。               

 教師と言うことで数回に亘り子供の夏季教会学校で東松山教会に行った。後で思うと迷える1匹の小羊が教会の門に向かってウロウロしていたと思えた。

ロア・タルチシュス神父様とは1951(昭和36)年にお逢いした。その翌年は私達の結婚式をしてくれた。以来、29年間、神父様とは尊敬の念を持って親交を深めて来た。その神父様が悪腫のため聖母病院から退院され、50年間伝導された日本からカナダへ帰国されることになった。足利教会にお別れに見えた。信者でない私は一番最後に挨拶した。その時、「あなたの生活はカトリックです。信者になればもっと素晴らしいです」と言われた。帰宅して29 年の親交を持った私が洗礼を受けないことを神父様はどのようにお考えだろうか、と思った。

明日は私は北海道へ出張、明後日は神父様はカナダへ帰る。直ぐ洗礼を申し込んだ。夜の8時だった。臥せて立てないと思っていた神父様が立ち上がりユーモアをもって「倉持さんは29年間よく頑張りましたね」と言われた。「洗礼名は」と言われ、「神父様にお任せします」と言った。すると「タルチシュス」と云われ神父様と同じなのに感動した。カナダに帰るや神父様は天国に召された。こうして今、私は存在している。

 「門番は、羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける」この言葉は私を放さない。
カトリック佐野教会
倉持 良一


復活節第5主日 ヨハネ14:1−12

2005/04/24(Sun)
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
(日本聖書協会 新共同訳)


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