カトリックさいたま教区
ホーム・Home初めての方へ・Welecomeお問い合わせ・Contactサイトマップ・Sitemapご利用について・Conditions of Useリンク・Links文字サイズ・Text sizeQRコード
カトリックさいたま教区

みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2004年11月(4) - 逆順表示

年間第32主日 ルカ福音書20:27−38

2004/11/07(Sun)
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20:30 次男、
20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」


Luka ni yoru Fukuin ( Luka 20.27-38, matawa 20.27, 34-38 )

[ Sonotoki, ] Fukkatsu ga aru koto o hiteisuru Sadokai-ha no hitobito ga nan-ninka chikayottekite, IESU ni tazuneta.

《 「 Sensei, Mōse wa watashitachi no tameni kaiteimasu. 『 Aru hito no ani ga tsuma o metori, ko ga nakute shinda baai, sono otōto wa aniyome to kekkonshite, ani no atotsugi o mōkenakerebanaranai 』to. Tokorode, shichinin no kyōdai ga imashita. Chōnan ga tsuma o mukaemashitaga, ko ga nai mama shinimashita. Jinan, sannan to tsugitsugini kono on-na o tsuma ni shimashitaga, shichinin tomo onajiyōni kodomo o nokosanaide shinimashita. Saigo ni sono on-na mo shinimashita. Suruto fukkatsu no toki, sono on-na wa dare no tsuma ni narunodeshōka. Shichinin tomo sono on-na o tsuma ni shita no desu. 」 》

IESU wa iwareta. 「 Konoyo no kora wa metottari totsuidarisuruga, tsugi no yo ni haitte shisha no nakakara fukkatsusurunoni fusawashii to sareta hitobito wa, metorukoto mo totsugukoto mo nai. Kono hitotachi wa, mohaya shinukoto ga nai. Tenshi ni hitoshii mono de ari, fukkatsu ni azukaru mono to shite, Kami no ko dakara de aru. Shisha ga fukkatsusurukoto wa, Mōse mo 『 Shiba 』 no kasho de, Shu o Aburaham no Kami, Isaku no Kami, Yakobu no Kami to yonde, shimeshiteiru. Kami wa shindamono no Kami dewa naku, ikiteiru mono no Kami nanoda. Subete no hito wa, Kami ni yotte ikiteiru kara de aru.」
(日本聖書協会 新共同訳)
 先日 テレビの中で「ユニバーサル・デザイン」というテーマで話し合われていました。

  万人向け、誰にでも公平、自由度が高いという意味のことを言っていたように思います。私の住む市でも、市の広報紙にここ数年広く取り上げられていたコーナーでもありました。 これ等は生活面や環境に対してのことと聞いています。果たして、教会の中での心の問題はどうでしょうか。

八月末に私達の教会で、全国部落問題研修会夏季合宿の二日目、教会の信徒会館ホールで全体の分かち合い、その後解放ミサが行われました。 深谷教会の信者も、この日は開放ミサに合わせて時間を繰り下げてのミサでした。谷司教様はじめ、数名の神父様方による素晴らしいミサだったと私は思いました。 この様な研修会は、関東では開催されなかった、とお聞きしましたが、私は今回の研修会に参加させて頂き、今まであまり知らずに過してきたことに申し訳ない思いでいっぱいでした。

ところが、このミサに授かっていた信者の中から、まるで意見の異なる思いでミサに授かっている人がいることをその後の委員会の中で言われ、驚愕致しました。この様なミサが行われることは、前もってお知らせはあったのですが、同じカトリックの信仰を持ってミサに授かっている人が・・、なんという心の狭さ、言葉では言い表すことができない、侮辱的な言い方に心が震えました。私たち一人一人が神の子として愛され、生活しているなかで、何という心の持ち主か、かわいそうにさえ思いました。今日の教会で福音の価値を意識して生きているでしょうか。 私は疑問です。
カトリック深谷教会
佐藤 茂子


年間第33主日 ルカ福音書21:5−19

2004/11/14(Sun)
21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


Luka ni yoru Fukuin ( Luka 21. 5-19 )

[ Sonotoki, ] Aru hitotachi ga, shinden ga migotona ishi to hōnōbutsu de kazarareteirukoto o hanashiteiruto, IESU wa iwareta. 「 Anatagata wa korera no mono ni mitoreteiruga, hitotsu no ishi mo kuzurezuni ta no ishi no ue ni nokorukoto no nai hi ga kuru. 」

Sokode, karera wa IESU ni tazuneta. 「 Sensei, dewa, sonokoto wa itsu okorunodesuka. Mata, sonokoto ga okoru toki ni wa, don-na shirushi ga arunodesuka. 」 IESU wa iwareta. 「 Madowasarenaiyōni kiotsukenasai. Watashi no na o nanoru mono ga ōzei araware, 『 Watashi ga soreda 』 toka, 『 Toki ga chikazuita 』 toka iuga, tsuiteittewa naranai. Sensō toka bōdō no koto o kiitemo, obietewa naranai. Kōiu koto ga mazu okoru ni kimatteiru ga, yo no owari wa suzu ni wa konai karadearu. 」 Soshite sarani, iwareta. 「 Tami wa tami ni, kuni wa kuni ni tekitaishite tachiagaru. Soshite, ōkina jishin ga ari, hōbōni kikin ya ekibyō ga okori, osoroshii genshō ya ichijirushii shirushi ga ten ni arawareru. Shikashi, korera no koto ga subete okoru mae ni, hitobito wa anatagata ni te o kudashite hakugaishi, kaidō ya rō ni hikiwatashi, watashi no na no tame ni ō ya sōtoku no mae ni hippatteiku. Sore wa anatagata ni totte akashi o suru kikai to naru. Dakara, maemotte benmei no junbi o surumai to, kokoro ni kimenasai. Don-na hantaisha demo, taikō mo hanron mo dekinai yōna kotoba to chie o, watashi ga anatagata ni sazukeru kara de aru. Anatagata wa oya, kyōdai, shinzoku, yūjin ni made uragirareru. Naka ni wa korosareru mono mo iru. Mata, watashi no na no tame ni, anatagata wa subete no hito ni nikumareru. Shikashi, anatagata no kaminoke no ippon mo kesshite nakunaranai. Nintai ni yotte, anatagata wa inochi o kachitorinasai. 」
(日本聖書協会 新共同訳)
神殿の崩壊を予告する

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

終末の徴

 そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」というが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決っているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかしこれらのことがすべて起こるまえに、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人まで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。

御手のなかに

  平和な時代だと誰が言うのだろう!中東には悲しみの連鎖が永遠に続くかのように自爆テロが続いている。そして大儀なき戦争に突入した米英は戦後統治に手を焼き復興の兆しすら見えない。人道支援という美名の下にアメリカに積極的に荷担した日本政府も自家撞着に陥っている。連綿と続いてきた人類の歴史を見るならば、動乱の歴史だったいってよい。部分的平和な時代はあったにせよ基調は乱にあったといえる。時代時代の良心は、祈り、手をつなぎ神の国を願い続けてきた。歴史が今日21世紀まで続いたのは、こうした良心の叫びがかろうじて時代を継げてきたのではないかと思う。20世紀は二つの世界的規模の戦争があり、人間がなしうる非道な殺戮をこの世紀はしるした。

 私はこのルカ福音書の章句を読むたびに思う。忘却の川をわたりこの世に送り出された私たち一人一人はその出自が何ゆえなのかも解らず、100年足らずの私たちの命は再び彼岸の彼方に去るという摂理のなかにある。この世で何をなすのか、個別的に託された使命は少なくても争いごとをなすように送り出されたわけではないだろう。裸で母の胎をでたのだ。裸でまたそこに帰っていく。この世に富を積んだところでそれが何を意味するというのだろう。略奪が大きな戦争につながっている。文明が少なくても今世紀初頭に大きな躓きを見せたのだ。時代の良心は祈り、祈り続けることにある。祈り続けることがかろうじて文明を次の時代に託すことに継ながる。天災地変あるいは人災があったところで「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と主はいう。 祈りは忍耐をよび、命に継がる。すべては御手のなかにある。福音書は時に激しく、時に静かに私たちを諭して飽くことをゆるさない。祈りの書とも言われるルカ福音書は、祈りそのものを深化させ時空をこえて私たちの前にある。神がそれをそこに置いたのである。
取手教会
倉升 善徳


王であるキリスト ルカ福音書23:35−43

2004/11/21(Sun)
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


Luka ni yoru fukuin ( Luka 23. 35-43 )

[ Sonotoki, giintachi wa IESU o ] azawaratteitta. 「 Tanin o sukuttanoda. Moshi Kami kara no Meshia de, erabareta mono nara, jibun o sukuu ga yoi. 」 Heishitachi mo IESU ni chikayori, sui budōshu o tsukitsukenagara bujokushite, itta. 「 Omae ga Yudaya-jin no ō nara, jibun o sukuttemiro.」 IESU no atama no ue ni wa, 「 Kore wa Yudaya-jin no ō 」 to kaita fuda mo kakageteatta.

Jūjika ni kakerareteita hanzainin no hitori ga, IESU o nonoshitta. 「 Omae wa Meshia de wa naika. Jibunjishin to wareware o sukuttemiro. 」 Suruto, mō hitori no hō ga tashinameta. 「 Omae wa Kami o mo osorenainoka, onaji keibatsu o uketeirunoni. Wareware wa, jibun no yatta koto no mukui o uketeirunodakara, tōzen da. Shikashi, kono kata wa nani mo warui koto o shiteinai. 」 Soshite, 「 IESU yo, anata no mikuni ni oide ni naru toki ni wa, watashi o omoidashitekudasai 」 to itta. Suruto IESU wa, 「 Hakkiri itteoku ga, anata wa kyō watashi to issho ni rakuen ni iru 」 to iwareta.
(日本聖書協会 新共同訳)
『人の心の不思議さ』
                             

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者ならば自分を救うが良い。」
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ。」
私はこのような話を聞いたならば、そして直接に聴いたとしたら本当に心が苦しくなります。
心が壊れるかも・・・・・・。
どうして人間は、自分の言動を棚に上げてこのように冷たい言葉を言えるのでしょうか。
人に対する共感や思いやりが全く感じられません。
そして先日、イラクで亡くなられた日本人青年に対しても、いろいろな批判がありましたが、
「自己責任」という言葉だけで、全て彼が悪いと決めつけて良いのでしょうか。
先述と同様な言葉なのでは無いでしょうか。
でも大多数の人は、「自分は関係ないよ。」と思っていることと想います。
が、待ってください。本当にそうでしょうか。私たち一人一人の心を深く見つけていくと、
一人よがりで自分勝手な主張や判断・決定があるのではないでしょうか。
私の中にも、このような心がきっとあります。
こういう自分自身を見つめつつ、日々の生活の中で葛藤しながら、
少しでもイエス様に近づき生活と信仰が一致できるよう導いて下さい。
「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ、しかしこの方は何も悪いことをしていない。」
自分の罪をしっかりと認め、ゆるしを請い希望へと向かうこの犯罪人に、私はまぶしく感じます。
「自分の心に素直になりたい。」
神様の愛に満たされている私達は神様に感謝し、祈りを通して許し合う生活を築いていきましょう。
そして、イエス様のあやつられ人形として愛の実践活動を続けましょう。
カトリック那須教会
平橋誠次


待降節第1主日 マタイ福音書24:37−44

2004/11/28(Sun)
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


Matai ni yoru Fukuin ( Matai 24.37-44 )

[ Sonotoki, IESU wa deshitachi ni iwareta. ] 「 Hito no ko ga kuru nowa, Noa no toki to onaji de aru. Kōzui ni naru mae wa, Noa ga hakobune ni hairu sono hi made, hitobito wa tabetari nondari, metottari totsuidari shiteita. Soshite, kōzui ga osottekite hitori nokorazu sarau made, nani mo kigatsukanakatta. Hito no ko ga kuru baai mo, kono yō de aru. Sonotoki, hatake ni futari no otoko ga ireba, hitori wa tsureteikare, mōhitori wa nokosareru. Futari no on-na ga usu o hiiteireba, hitori wa tsureteikare, mōhitori wa nokosareru. Dakara, me o samashiteinasai. Itsu no hi, jibun no Shu ga kaettekorareru no ka, anatagata ni wa wakaranaikaradearu. Kono koto o wakimaeteinasai. Ie no shujin wa, dorobō ga yoru no itsugoro yattekuruka o shitteitara, me o samashiteite, misumisu jibun no ie ni oshiirase wa shinaidarō. Dakara, anatagata mo yōishiteinasai. Hito no ko wa omoigakenai toki ni kuru kara de aru. 」
(日本聖書協会 新共同訳)
「ながら祈りですみません」

神様の姿は見えないし、肉声を聞くこともできませんが、関わりを感じることはあります。

 先日起きた新潟中越地震で、お孫さんを亡くされた高齢の被災者が「自然災害とは言え、なんでこんな目に会わなければならないのか。」と言っておられた。悲しみ、苦しみは比較にならないかも知れませんが、私も夫の突然のうつ病発症で「どうして夫が・・・」と不満不安で私自身、心も身体も壊れてしまいそうでした。

 また、入院先での薬による治療の様子は、夫のすべての機能を失くしてしまうのではないか、と思えるもので私は絶望感でいっぱいになりました。 そんな中、「私はどうすれば良いのですか。」と家で米を研ぐ時も、仕事で公共施設の広い床にモップがけをする時も神様に尋ねました。午後は、片道車で一時間の病院へ毎日夫の介助に通いました。 そして、二ヶ月が経った頃、その答えが見つかりました。「子供達(二人とも学生ですが、二十歳を過ぎています)と協力して、病気の夫と暮らしていくだけで良いんだ。」と心から思ったのです。 そうしたら、気持ちが軽くなって「声も表情も違ってきたよ」、と周りの人から言われるくらい変わりました。 それから一ヶ月、夫の病気は改善し、退院後自宅療養で、職場復帰もできました。私はこの体験で、望まない出来事が身に起きても、その現実を受け入れた時、前へ進んで行くのだな、と実感しました。

 さて、今日の福音ですが、私はこれまで聖書の勉強を怠けていたので、解説はできないし、感じることも少ししかありません。「だから、目を覚ましていなさい」という部分で、目を覚ましていなければ神様はあなたを見放しますよ、と言われている気がします。 又、「だから、用意しているがよい」とありますが、何か物を揃えるのならできるでしょうが・・・目に見えない問題のようです。 目を覚ますことも用意することも。今回の体験で、家族全員が心の問題に触れる機会を得たことで、こころの目を少しだけ覚ますことが出来たような気がします。 息子は父親に代わって働こうと思ったそうです。そして、現実を受け入れることも備えの一つかな、と思います。私は自分の置かれた場所で、私なりの力を精いっぱい出して生きていこうと強く思っています。 「ながら祈り」を続けつつ。
カトリック館林教会
有田 靖


 [みことばと私] 




- Tor World v1.51 -