カトリックさいたま教区
ホーム・Home初めての方へ・Welecomeお問い合わせ・Contactサイトマップ・Sitemapご利用について・Conditions of Useリンク・Links文字サイズ・Text sizeQRコード
カトリックさいたま教区

みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2003年03月(5) - 逆順表示

年間第8主日 マルコ福音書2:18−22

2003/03/02(Sun)
2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
(日本聖書協会 新共同訳)
ボランティア。約30年位前、日本では現在のようにボランティアという言葉はあまり聞かれませんでした。奉仕活動。社会参加等。点訳ボランティアとして、約30年前、子育てをしながら点字の講習を受け、教会で役立てられたらいいと、数名が受講し、現在に至っています。昨年暮に突然、夢が現実となり、点字プリンターを教区で設置して頂きました。
最初の仕事として谷司教様の年頭メッセージを打出し、視覚障害者の方々にお送り致しました。障害者の方から「これからは点字でお知らせを頂けるのですね」と有難うのお手紙を頂きました。私達の方こそ有難うの気持ちです。人にはそれぞれのタレントがありますが、それらを生かすことが出来ているでしょうか。シンプルな生活で、タレントを生かす生活をしていきたいものです。神に感謝。
深谷教会
佐藤茂子


四旬節第1主日 マルコ福音書1:12−15

2003/03/09(Sun)
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(日本聖書協会 新共同訳)
『イエスはサタンから誘惑を受けられた。天使たちがイエスに仕えていた。』 

今日の福音ではイエスは40日間、荒野に留まり、サタンから誘惑を受けられた。と記されています。この40日間という期間はイエスにとって長かったか、短かかったは私には分かりません。もしサタンからの厳しい試練の日々であれば、1日1日が辛く耐え難い日々であったでしょう。このように自分がこの無限に続くとも思える試練の時をむかえたら、どうして耐えられるか、どうやって頑張れるか毎朝の散歩の時に実践している事を紹介します。ある朝の山の中の愛犬との散歩中の事です。突然口から自然に出てきた言葉が『今日1日、今日1日、今日1日。』でした。これは『今日1日明るく、今日1日楽しく、今日1日元気に。やるぞ!!』と言う意味が含まれています。そして『今日は、今日こそ、今日も』と日によって切り替えます。昨日からの心の中に残っている記憶、特に好ましくない嫌な事などがあれば、この簡単なおまじないが強力に心の中に響いてきます。そうだ、聖書にあるぞ。『明日の事を思い煩うな。野の花を見よ。そらの鳥を見よ。』と。そして私は今、ここ数年間続くと思われる課題にこの毎朝の念仏!?で対処しようとしています。
カトリック日立教会 木塚正弘


四旬節第2主日 マルコ福音書9:2−10

2003/03/16(Sun)
9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
(日本聖書協会 新共同訳)
 最初の受難予告から六日目のタボル山での出来事が今日の主題です。

「旅に出たくなる地図」のイスラエルのところを開けるとありました。カナの南10kmにタボル山(562m)があります。とるに足らない山のようにみえますが登る人もいない荒れ野のけわしい山だったのでしょう。

私達も山に入り山頂に立つときにはなにか大自然に近づいたか、あるいは大自然の真っ只中にいる、さらにある種の神々しさを感ずるものです。

その山上でのご変客を見るという体験、信仰薄い者には想像がつきませんが、どのような神体験であったのでしょうか。イエスの信任あつい三人組(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)だけに与えられた贈物だったのでしょうか。何故弟子たち全員にご変容をご披露しなかったのかなど凡人は勘ぐります。

ご変容、イエス様もへンシンするの?との子供の質問。子供の世界ではヘンシ−ンする仮面ライダー、子供はへンシ−ンといって仮面ライダーと一心同体になります。私達はご変容のイエスと一致できますか。

まもなく四月新学期、悪ガキの小六もピカピカの中学一年生となり街中が新社会人も含めてピカピカになることでしょう。私達もご変容にあやかってぴかぴかにヘンシ−ンしましょう。
峰教会
川里 宏


四旬節第3主日 ヨハネ福音書2:19−25

2003/03/23(Sun)
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
(日本聖書協会 新共同訳)
私と福音 

 人との出会いは奇跡だと思う。その時の行動や気持ちが少しでも違えば、出会えなかった可能性があり、その確率のほうがはるかに高いのだ。神様は毎日出会いという奇跡をくれる。人との出会いが私を変え、成長させてくれる。私は、ある奇跡をいただくまで、強制的に教会へ行っていた。何のために教会へ行くのか理由を見出せなかった。

 ある奇跡とは、春季・夏季に行われる中高生の待者合宿の時のことである。そこでは中学1年生から高校生、リーダーを含めると大人まで幅広い年齢の人と知り合い、時にはディスカッションしたり、人の意見や主張を聞くことができる。なぜ教会へ行くのか、集まった人々の意見を聞いているうちに、私にもほんの一部だが、答えが見えるようになってきた。

 教会には様々な出会いがある。幅広い年齢層、職種、国籍の人とコミュニケーションをとれる場所は、日常生活の中にそうはない。バザーやミサを通してたくさんの人と知り合うことができた。

 日々いただいている奇跡に鈍感になってはいけないと思う。人が自分を成長させ、自分が相手を成長させている。そんな小さな喜びを大切にしていけたら、人はお互いを大切にし、素敵な人間関係が形成されると思う。
高崎教会 木田ちひろ


四旬節第4主日 ヨハネ福音書3:14-21

2003/03/30(Sun)
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
(日本聖書協会 新共同訳)
「光を信じて・・・」

四旬節も第4主日を迎えました。今日の福音を通して、私が感じたことを少し分かち合ってみたいと思います。福音から私へのメッセージそれは「神はそのひとり子をお与えに

なったほどに世を愛された。」この一節でした。そして、私たち一人一人は「神様さまから愛されている」という恵みを頂いていることに気付かされました。神への全き信頼のうちに日々の生活を送っているつもりの私ですが、時々『神不在』の札を掛けてしまっているのでは?と、私自身の生き方を見直し、反省もさせられました。

修道者である私も、弱い人間です。これまでの歩みのなかで、幾度となく困難の壁にぶつかってきました。そのとき、私は自分の努力の限界さを感じると同時に、もっと力を出して頑張れば何とかなるだろうと、自分の能力だけに頼り切っていました。福音の中にあるように、光よりも闇の方をこのんでいたのかも知れません。その「光」がイエス様であることも気付かず、知らず知らずのうちに闇へ闇へと向かっていたのです。それが正に『神不在』の心なのでしょう。私たちは神様がお与えになったひとり子イエスを通して、イエスを信じることによって、神様から愛されていることをいつも感じることが大切だと思います。

ふと、ある本の話しを思い出しました。それは、「たいせつなきみ」という木彫りの小人たちと彫刻家の小さな物語です。主人公は木彫りの小人、パンチネロ。パンチネロは「僕はだめなやつさ」、何をやってもさえない、と自信をなくしていました。そんなパンチネロに彫刻家のエリは「お前はありのままでかけがえのない大切な存在なのだよ」と語りかけておくれるのです。このときパンチネロはきっとエリから愛されているんだという喜びの気持ちでいっぱいだったことでしょう。神様と私の関係も同じです。大切な存在として神様に愛されていることを実感し、光であるイエスに心を向けて、そして信じて、永遠の命を得るために歩んでいけたらと思います。

心の中に掛けていた『神不在』の札を取り外し、これからは『神在室』の札がいつも掛かっていることを願いながら、また、今起きているイラク戦争が一日も早く終わり、平和な世界になることを祈りつつ、「神様から愛されている」喜びが世界のすべての人の心に浸透することができたら・・・と願っています。
長崎純心聖母会浦和修道院
シスター・M.レティチア


 [みことばと私] 




- Tor World v1.51 -