カトリックさいたま教区
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みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2002年12月(5) - 逆順表示

待降節弟1主日 マルコ福音書13:33〜37

2002/12/01(Sun)
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
(日本聖書協会 新共同訳)
私の学生時代、たいてい試験は一夜漬けで受けたので、当然期待どおりの結果は得られず、いつも、次回こそ、よい準備をしようと反省だけはして
いたのですが、再びその次回の準備もしなかったのです。それでなんとか卒業できたのは、不思議〜〜です。

共同購入の申込書提出日に、余裕をもって備えることは、私にとって難しく、直前になって、慌てているのです。やっとの思いで書き終えて間に合わせているのです。

   気候が不順で、夏の暑さがいつまでも続いていても、田んぼのあぜ道
   には、真っ赤な彼岸花が咲き始め、咲き揃うと確かにその時節が、
   来たことが、わかります。またあたりが凍てついた土地にも、雪の下
   には、黄色い花をやがて見せてくれる福寿草が、そのつぼみを
   覗かす準備をしています。このように自然界は、時に適って、
   素晴らしいと、いつも私は思います。

先日、共同の祈りで、主が来られる時いつも備えていることができるよう力づけて下さい、と祈りました。すべて御みとうしでしょうから、こんな私に「首をかしげて・・・」でも、御顔を見せて下さるでしょうか・・・。
熊谷教会
山森範子


待降節弟2主日 マルコ福音書1:1‐8

2002/12/08(Sun)
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
(日本聖書協会 新共同訳)
「荒れ野で叫ぶ者の声がする.」聖書の中でも好きな一節です.勝手な思い入れながら,この一節には緊張感,孤独感を強く感じるのです.もっとも「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあるので,ヨハネ自身は孤独というよりは結構忙しそうで,どうやら,私の思い入れは荒れ野で叫ぶという行為の表面的な悲壮感に向けられた情緒的なもののようです.

ある日の夕方,職場の庭で大声で叫んでいる若者がいました.何事かと駆けつけた警備員に咎められた彼が言うには「むしゃくしゃしていたで・・・」彼に必要だったのは,広い場所で大声を出すことで,叫んでいるものの聞く人はいなくても良いのです.これはヨハネの荒れ野ではありません.ヨハネは文字通りに荒れ野で叫んだわけではないでしょう.救い主が来ることを多くの人に伝えようとしたのですから,聴衆のいない荒れ野で叫んでいては使命が果たせません.

旧約聖書から繰り返される,ユダヤの民,預言者たち,そしてキリストの荒れ野での彷徨や試練のモチーフは,救いと荒れ野が不可分の関係にあることを暗示するように思います.逆に言うと,救いを待ち望む我々は,まさに荒れ野にたたずんでいると言えないでしょうか.荒れ野で叫ぶ者に感た孤独感は,実は叫ぶ者の声が聞こえてこない自分に感じている孤独感の裏返しなのかもしれません.
土浦教会 歳森敦


待降節第3主日 ヨハネ福音書1:6−8,19−28

2002/12/15(Sun)
:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
(日本聖書協会 新共同訳)
 読んでまず感じたことは、

神はイエスを世の人達の中に遣わす前に準備をしていたということ、そして、19節からは洗礼者ヨハネがどういう人物であったか自分の置かれている立場、自分が何の為に、この地に来たのか、自分は今何をしなくてはいけないのか、ということが明確に書かれている。メシアでもない、エリアでも預言者でも無い主が来られる前に主の道をまっすぐにするために遣わされたのだということ・・・水で洗礼を授けるが、神(イエス)の前では自分は奴隷以下の人間だと考えていた。ヨハネ自身は人々の中に神を見ているが、ベタニアの人々は、まだ神の存在に気がついていないので、イエスが来られるのを知らせる為に主によって遣わされたということ・・・

私達も主が来られるまでに、心の準備をして、神がいつでも自分の心の中に入れるような、ゆとりを持ち、そして他の人には洗礼者ヨハネのように、神はいつでも貴方の方を見ています・・貴方も神の方を向いてごらんなさいと、勇気を持って、言えるようになりたいものだと感じました。
足利教会
川田 秀幸


待降節弟4主日 ルカ福音書1:26−38

2002/12/22(Sun)
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(日本聖書協会 新共同訳)
待降節第4主日の福音はお告げのシーンである。毎回このところを読んでマリア様のことをすごいと感心したり、何で?と不思議に思う。
マリアは天使のお告げを、最初戸惑うもののすぐにそれを事実として受け入れる。普通突然そんなことを言われても冗談としか考えようのないことであるが、どうしてマリアはすぐにそれを受け入れられたのだろうか。たしかに家の母が僕を妊娠したときにはとてもうれしかったと言っていた。これとマリア様の場合はかなり異なるものだと思うが、単にマリア様も素直に子供を授かった事がうれしかったのではないだろうか。それが『神の子』ならば喜びもなおさらであり、納得できる。
 現在、できちゃった結婚や、人工妊娠中絶など子供をほしい時に授かるのではなかったり、むしろ必要ではないと考えられたりしてしまう事もあるが、マリアやヨセフがそうであったように授かった子供を喜びとともに育てていけるような社会になってほしい。クリスマスを迎えるにあたり、この福音をもう少し深く考えてみたい。
前橋教会
坂詰未来


聖家族の主日 ルカ福音書 2:22−40

2002/12/29(Sun)
2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(日本聖書協会 新共同訳)
 今日は聖家族の祝日でそのためイエス様の家族が3人揃って福音に登場する場面の一つが朗読されます。ところがこの箇所を読んでみると、イエス様の家族というのがどんなに律法の遵守に熱心であったかということが書かれていて一寸驚かされます。何しろこの短い箇所に5回もそのことが繰り返しでてくるからです。イエス様が成長されてからの言動を考えると奇異な感じも受けます。

 しかし、実は律法の遵守こそはイスラエルの救いのために神から与えられた唯一の道でした。彼らを出迎えたシメオンもまた「正しい人」であったと書かれていますから、彼も律法を咎無く守った人でした。ところが、そのシメオンが母マリアの手から幼子イエスを抱き取って神をたたえて言った言葉は、「私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光です。」というものでした。イスラエルの救いではなく、万民の救いです。この救いは律法の遵守によって得られるイスラエル一民族の救いではないのです。しかも律法の遵守によってではなく、啓示に対する信仰こそが万民の救いを約束するものであると示されたのです。つまり幼子イエスがシメオンの腕に抱きとられた瞬間にイスラエルの歴史が180度転回したのです。

 今回この福音を読んで思ったことですが、私たちの教会生活の中でも時としてこのような大転回を経験することがあるのではないでしょうか。人によっては第二ヴァチカン公会議はまさにそれでした。そしてもっと小さいことかもしれないけれど、身近なことでいえば、日本の教会を築くために真面目な信者として、いわば日本のカトリック教会の律法を守って営々と努力してきたのにある日突然、浦和教区は多国籍文化の教区であると司教様に宣言されたようなものかもしれません。これをシメオンとともに「あなたの民イスラエルの誉れ(浦和教区の誉れ)」といえるかどうか、祈りのうちに心に問いかけてみたいものです。
聖心侍女修道会
シスター 田口啓子


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