カトリックさいたま教区
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カトリックさいたま教区

みことばと私 REFLECTIONS



「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
(ヨハネによる福音書1・14)

このページは信者一人ひとりが自分の体験をふりかえり、その中で見つけた”みことばと共に生きる喜び”をわかちあう場です。

みことばと私 - 一覧表示 - カレンダ表示 > 2002年11月(4) - 逆順表示

年間第31主日 マタイ23:1―12

2002/11/03(Sun)
23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(日本聖書協会 新共同訳)
娘が小学生の頃のことです。
5・6年生になると毎年運動会で鼓笛隊のパレードをやっていました。親も子も、低学年の頃からバトンやフラッグ、小太鼓、いろいろな管楽器を演奏するのを楽しみにしていました。特に女の子にとっては運動会の花形スターになるような感じでした。
でも、楽器の数も限りがありますから当然試験があって、合格した人だけスターになれるわけで、不合格だと5年生と一緒に縦笛を吹きながらその他大勢の中で行進することになるのです。
娘は人一倍目立つのが好きでしたから、片っ端から試験を受けました。
親としてもパレードの先頭で誇らし気に笑っている娘の姿を想像し、他のお母さん達に自慢したいと思ってました。
ところが、バトンもフラッグも不合格、太鼓もだめ、とうとうこれで最後というシンバルの試験の日になりました。もし、これも不合格だったら娘に何と言って慰めたら良いかわかりません。勿論娘を自慢したい私自身も他のお母さん達と顔を合わせるのもいやになるだろうし・・・
ところが、学校からニコニコしながら帰って来るなりこう言ったのです
「だめだった。でもね、私全部の楽器に触って来たんだよ。合格しちゃうと他のは触らせてもらえないんだ。全部触ったの私だけだよ。それで一番仲良しのA子ちゃんと一緒に縦笛吹くんだ。なんか得しちゃった。」
願わくば、今でもこの頃のすてきなハートを持ち続けていていてくれることを。
私はと言えば、未だ見た目を気にしたり世間体を考えて娘に小言を行ったりで、ちっとも成長していません。運動会の季節になるとこの時の娘の真っ直ぐでキラキラした瞳を思い出し、反省しているのですが。
中村 陽子
(熊谷教会)


年間第32主日 マタイ福音書25:1―13

2002/11/10(Sun)
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
(日本聖書協会 新共同訳)
 この原稿依頼を受けたとき、私は真夜中に起こされた愚かなおとめたちと同じように、とても驚き、慌てふためきました。なぜならば、普段から油を殆ど蓄えていなかった私には、どんなことを書くべきか全く検討がつかなかったからです。
  このマタイによる福音では、『その日、その時』すなわち“人の子の到来“に備えて『目を覚ましていなさい』ということが一連のテーマとして掲げられていますが、たとえの中のおとめたちは結局、皆眠り込んでしまっています。にも拘わらず、半分のおとめは婚宴の席に入ることが出来ました。それは賢いおとめたちは予め油を多く用意していた為、ともし火が消えること無く、きちんと花婿を迎えることができたからです。では一体、私たちにとっての油とは何のことをさしているのでしょうか?ともし火とは・・・?
 その疑問にある方が、油は「良いわざ」、ともし火は「信仰」のことだと答えてくれました。なるほど、我々カトリック信者は受洗したときにはじめて火をともし(てもらい)、最初のうちはその火の勢いも強く、またそれ自体は比較的簡単なことでしょう。しかし、一度ともしたその火をずっと燃やし続けるには、油を補充する必要があり、しかもつい眠ってしまい、そして突然起こされたときにも、火が消えそうだ(或いは消えてしまった)と慌てなくても済むように充分な量の油を蓄えておかなければなりません。そのためには常日頃から「良いわざ」の行いを心掛けたいものですが、現代社会の
忙しい日常生活においてはつい疎かにしがちです。
 幸いにも今回、私は自分のともし火がいかに暗く、今にも消えそうな状態にあるか気付かされました。そして『目を覚ましていなさい』という言葉を、“油を絶やすな、油断してはいけない”という神様からのメッセージとして受けとめることができたことは大きな収穫であったと感謝しております。

カトリックつくば教会
永田 光


年間第32主日 マタイ福音書 25章14−30

2002/11/17(Sun)
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
(日本聖書協会 新共同訳)
いつの世もお金は、身近で関心のあるものの一つです。此の話はわかり易いたとえ話 としてよく耳にします。此の話を読んで、さて、自分はどの僕になるのかな?と考え ました。一番目の僕か、または二番目かな?いや三番目だったらどうしようなどと思 っています。神様からの呼びかけに答えていただいたお恵は、ある人には大きく思え てもある人はそれ程大きく感じないかもしれません。けれど神様からのお恵、愛は、 一人一人同じにいただいていると思います。その事は忘れてはならないと思います。 只、その活用する事についてはなにも制約されておりませんが、その結果は大いに評 価されます。それは最後の時、主人である神様の前で清算する時です。努力し持って いる人は更に与えられ豊かになるが、怠けていて持っていない者は、持っている物ま でとりあげられ、そのあげく、外の暗やみにほうり出されそこで泣き、歯ぎしりをす る。と或る個所で言われています。弱い信仰の持ち主である私が、歯ぎしり、泣きさ けばないように『忠実な良い僕だ・・・・主人と一緒によろこんでくれ』と言われる 様お祈り下さい。
佐野教会
本間龍男


王であるキリスト マタイ福音書25章31−46

2002/11/24(Sun)
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
(日本聖書協会 新共同訳)
私の考え

今回のみ言葉について考えましたが、考えがまとまりません。というか難しくて何を書けばよいのか解らないので、次の三つのことについて私の思うことを書きます。

最後の審判。

私の思う最後の審判とは、私の死(肉体)です。
いつ死ぬのか?それは、神が私に与えた試練をすべて受け、私に与えた使命を果たしたときだと思うのです。私は小神学校にいましたが訳があり、司祭になる道を断念した時に思ったことで、今もそれを信じ、何を求められているのか考え生きています。

愛。

私の思う愛とは、想いです。

親、兄弟姉妹、子供、恋人、そしてすべての人。損得ではなく、苦楽ではなく、自分がそうしたいからと言う想いの中で生きる事、それが愛ではないかと思います。

一番身近なことで、子供のためなら裏切られても、考え、教え、育てる。すべて心からおもうからこそ出来ることだと思います。

そう言った、心から自然に出来る、相手を思う気持ち。それが想い、そして愛だと私は思います。

どう生きるか?

いままでも努力はしているのですが、とても難しくなかなか思うようにいきません。

それは、人として当たり前のことを!

高校生のとき、「聖人になるには当たり前のことをしていればいい。」という言葉を聴きました。

しかし、難しいのです。「おはよう、」「こんにちは、」「こんばんは、」挨拶はもちろん、ドアを開けたら閉める等と、日々の生活の中にも考えるとたくさんあります。

その中に神の私に与えた使命、そして想いを見つけ、生きていければと考えています。
館林教会
吉川 寛


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