信仰とは FAITH
「忍耐強く走り抜こうではありませんか、
信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
(ヘブライ人への手紙12・1-2)
信仰は、ご自分を啓示し、与えてくださる神への人間の応答です。しかも、神は同時に、人生の究極の意味を探し求める人間に、あふれるばかりの光を注がれるのです。(1)
人間の探求
神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せられておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします。(2)
人間を訪れる神
神はそのいつくしみと英知によってご自身を人間に啓示なさいます。さまざまな出来事やことばをもって、ご自身とそのいつくしみに満ちた計画を啓示してくださいます。この計画は、神が人間のためにキリストにおいて永遠から定めてくださったもので、聖霊の恵みによって、すべての人をひとり子における養子として神のいのちにあずからせるというものです。(3)
神への人間の応答
啓示によって、「見えざる神は、大きな愛によって、あたかも友に対するように、人間に話しかけ、彼らと住まいをともにしています。それは、彼らを自分との交わりに招き、これにあずからせるためです。」この招きに対するふさわしい回答が信仰です。(4) 信仰によって、人間は、その知性と意志とをまったく神に従わせます。人間は啓示する神に心底から同意します。聖書は、神への人間のこの応答を「信仰による従順」と呼んでいます。(5)
信仰の特徴
信仰は、神からの無償のたまもの、へりくだって求める者が得ることのできるものであり、救われるために必要な超自然的徳です。信仰の行為は、人間的行為、すなわち人間の知的行為であり、神によって動かされた意思の働きかけにおいて、神的真理に自由に同意する行為です。信仰はさらに、神の言葉に基づくものであるため、確実です。そして、「愛の実践」(ガラテヤ5・6)という働きを伴うものです。信仰は、神のことばを聞くことと祈りとによって、たえず成長していきます。信仰は、天上の喜びを今から前もって味わわせてくれます。(6)
信仰の自由
「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いています。それで、人間は良心において束縛されてはいますが、強制はされていません。……このことは、イエス・キリストにおいてもっともよく示されています。」キリストは信仰と回心を促しはしましたが、決して強制はなさいませんでした。「真理に証明を与えはしましたが、それを反対者に力づくで押しつけることはしませんでした。その国は……十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展します。」(7)
教会の信仰
信仰は、ご自分を啓示される神に対する人間の自由な応答ですから、個人の行為です。しかし同時に、「わたしたちは信じます」という告白の中に表現されているように、教会の行為です。事実、信じるのは教会です。教会はこのように、聖霊の恵みにより、個々のキリスト信者の信仰に先立ち、これを生み出し、養います。それゆえ、教会は母であり、教師なのです。(8)
教会は言語、文化、典礼に関しては異なる人々によって形づくられていますが、唯一の主から受け、唯一の使徒伝承によって伝えられた唯一の信仰を皆で一致して宣言します。父と子と聖霊の唯一の神を宣言し、救いへの唯一の道を指し示します。ですから、伝承された、あるいは書かれた神のことばに含まれ、神から啓示されたものとして、教会が提示することをすべて、わたしたちはただ一つの心、ただ一つの魂をもって信じます。(9)
<抜粋>
(1)『カトリック教会のカテキズム』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第1章「人間は神を知ることができる」26。
(2)同27。
(3)『カトリック教会のカテキズム要約』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第2章「人間を訪れる神」6。
(4)『カトリック教会のカテキズム』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第3章「神への人間の応答」142。
(5)同143。
(6)『カトリック教会のカテキズム要約』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第3章「神への人間の応答」28。
(7)『カトリック教会のカテキズム』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第3章「神への人間の応答」160。
(8)『カトリック教会のカテキズム要約』第1編「信仰宣言」、第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」、第3章「神への人間の応答」30。
(9)同32。